個展「Contemporary Art 2012」 Gallery COEXIST-TOKYO

個展「Contemporary Art 2012」 Gallery COEXIST-TOKYO

場所:Gallery COEXIST-TOKYO(東京)
会期:2012年6月2日~24日

100平米ある大きなギャラリー。インスタレーションとパフォーマンスを上演。
あおひと君がだんだん地球に同化。進化しつづけるSky Boy!
ひたすらメッセージを発信し続ける。やっぱり愛だろ、愛!
あおひと君パフォーマンス(6/23) 三味線:早乙女和完
<作品解説>
「愛」207点のドローイング(水彩紙にグアッシュ/10cm x 15cm)で構成(高さ約3m幅2m)。207は世界に存在する国の数だ。世界で愛を築こう!
「平和」207点のドローイング(水彩紙にグアッシュ/21cm x 30cm)で構成(高さ約3m幅6m)。愛と同様、平和を築こう!
「幸福」ロト6用紙669枚で幸福の字にインスタレーション。展覧会期間中で669回の抽選があった。
(幅6m x 高3m)で構成。
「2012」2012本の十字架で(割り箸、輪ゴム/10cm x 21cm)で構成(長約8m幅2m)。2012年は西暦でキリスト教の暦だ。宗教と時代、その意味を問う。パフォーマンスで中央にまとめる。
「煩悩」108点のドローイング(水彩紙にグアッシュ/10cm x 15cm)で構成(高さ約1m幅3m)。

創作に関する私論 新たな現代美術の地平をさぐる試み

なぜ表現しようとするのか、作品を作るのか、発表しなければならないのか?

まず思いつくことは「人にほめられたい、他者に認められたい」という欲望の仕業だ。その願望はカントやヘーゲルたちの哲学的探求にみられるように人間の存在および自由の概念につながる重要なキーワードである。

ではなぜ、他者に認められたいのだろう?

それは自分という存在が、あやふやなそれ自身では成り立たない存在だからだ。自己意識は他者(鏡)を通じてのみ認識できる。そして自由(ユートピア)という自覚がわき起こる。まるで肉体というオリに閉じこめられた何か、肉体の壁のむこうがわに何かいるのような感覚だ。

ではなぜ、認められたいがために「現代美術」を選んだのか?

ギリシャ・イタリア留学中、数多くの「ホンモノ」(泰西名画から現代美術まで)の感動の波状攻撃をあびてしまったからだ。その圧倒的なエネルギー(感動)はコンプレックスと既成価値がこびりついた肉体の殻を突き破り、とてつもなく広大な別次元が自分のうちに存在することを教えてくれた。一言で言い表すと「青」一色の無限の世界である。その中で自分はニーチェのいう超人にもなれ自由な感覚に酔いしることもでき哲学用語でいう「快」(心地よさ、幸福感)に全身包まれる。

このように感動は肉体のなかに幽閉されている自己を「駆り立て」(古代ギリシャ語でホルモンの意味、ニックネームの由来)目覚めさせてしまった。はからずもこの駆り立てられた自分が存在する以上、無視することができなくなってしまった。

この体験から、自分には肉体とその中に別の真の自分がいるような感覚がつきまとうようになる。当然、精神は肉体の自分にもあるし、かれらも他者から認められたいことは真の自分と同じ。なので時として肉体の自分と真の自分を見間違えることもあるからやっかいだ。ただし、こういう感覚はモノと心をわけたデカルト的二元論やプラトニズム(イデア論や形而上学)とさして差がないことも承知している。この私論はあくまで創作の補強であって哲学的試論ではないことを断っておく。

では「感動」とはいったい何なのだろう?

この命題は古代ギリシャからずっと問われているテーマでもある。恐らく今をもっても的確な哲学的解答も科学的な根拠も見つけられていない(茂木健一郎氏など脳科学者がそれを「クオリア」と呼び、研究されてはいる)。ただ感動とは、自分を自分たらしめる手段であり自分の本当の存在を気づかせるモノだ、ということは少なくとも言えるのではないか。

ある意味、自分にとって大きな不幸のはじまりとも言えるのだが、現代美術にすっかり魅せられてしまった自分は、同じような作品を作り出せれば皆から認められるし、また感動を常に作り出せるのだったら自己を確立でき自由になれる、と幻想も抱かせた。そして浅はかにも作家になろうと決めた途端、大きな壁にブチ当たるのだ。

当たり前だが原因がわかったところで言葉で納得できたところで、感動を与えられる作品が描けるとはまったく次元の違う話なのだ。それは水の分子構造を知っていても簡単には水そのものをつくることができないのと同じだ。

技巧も含め試行錯誤を経た末、東洋思想を懐にたずさえながらヨーロッパ近代哲学にその突破口を見つけ出そうとする。なぜなら現代美術(それはルネッサンスでも18世紀でもその時代の先端にあれば現代美術という意味)はヨーロッパ文化においては歴史的に思想・哲学の仲間と考えられていたからだ。ヨーロッパ文化は宗教の影響もあり、はじめに言葉ありきの世界である。それが思想や哲学をも発展させた。なぜなら言葉で説明、置き換えられないものは存在しないに等しいからだ。キリスト教がイエスと弟子たちの言葉で成り立っているように。

近代まで学問も芸術も特権階級だけの存在だったが、芸術作品も時代の要請でその意義や形態は変化しつづけながら思想・哲学分野に組み込まれてきた。そして権力・権威に強固に関係すればするほど歴史に加えられていく。ということで前途多難な荒波に帆をあげてしまったのだ。最初はまったくの複雑怪奇、一行も理解できない哲学的エクリチュール(書き言葉)が明け方のモヤのように晴れていき、同時に現代美術の水平線上に陽がのぞき水面が輝きはじめたのだった。

「感動」は真の自分を偽装した動物的自分をかいくぐらなければならない。そのためにはすでにある経験や知識、美的体験などとは違うものでなければならない。これは現代美術の難解さを生じさせる原因でもある。大脳新皮質が認識できない姿をしているのだから。これまで集積したデータベースの中身とは一致しないのだから。

若い頃、このことを裏付けるような面白い体験をした。それは1980年頃スイスの現代美術館でジュリアン・シュナーベルの大きなタブローを前にして何も感じられない自分がいたのだ。高さ4メートルくらいある巨大なタブローに皿のカケラが一面にはられ絵の具で人物などがなぐり描かれ、なぜこれが最先端な表現なのか、まったく理解できなかった。それまでに急いで学んだコンセプチュアル・アート、ランド・アート、ミニマル・アートなどほとんど無味乾燥で直線的な現代美術の棺桶のような作品群が先端芸術と信じていたからなおさらだ。フラッシュ・アート誌など当時メディアに登場しはじめたシュナーベルやボロフスキー、サーレなどのニューペインティング、イタリア3C(クッキ、クレメンテ、キア)、ドイツの新表現主義(バゼリッツ、ペンク、キーファーなど)たちの筆致の激しい彩色鮮やかなタブロー群は、かつてのラウシェンバーグやコブラ・グループ、デュビュフェなど抽象表現主義的絵画を更新したとしか考えられなかった。

当時の自分は残念ながらそれら断片の組み立て図でもある思想や哲学的文脈は、まだ手に入れていなかったのだ。そのかわり偏狭な知識や技巧が溜まっていた。現代美術や芸術の一般的知識、マルローの空想の美術館的な作品たち、評判、権威的な見識など容易に手に入るマスメディア情報を断片的に無作為にため込んでいただけだった。

そんな断片をいくらたくさん仕入れたところで肉体の好餌にすぎず、感性のメタボ化を助長したにすぎなかった。それでは感動が、真の自分に到達する前に肉体の自分で止まってしまう。肉体の自分たちもとても狡猾で甘美だから要注意なのだ。セイレーンの歌声のように待ちぶせている。その誘惑に負けてはならない。感動の一撃のときには芸術や哲学、美学など知識も技術も貧しく、慣れない海外生活の困難さや孤独感に打ちひしがれ、肉体の自分が弱っていたことも幸いしたのだ。

天才たちの中には力わざで強引に突破するアーティストもいるが(例えばピカソや草間弥生)、文脈という道順を示した宝の地図を手に入れた芸術家たちもいる(デュシャンやボイスなど)。古今東西、哲学の最大の謎は「自分の存在」と「言語」とそれから導き出される「自由」の概念とも言われている。近代哲学はデカルトに始まり、プラトンから続いた形而上学や客観論から、存在の本質は自分の認識にある、とカントにより転回(パラダイムシフト、価値観の変革)する。

ヘーゲルからニーチェ、マルクスなどに受け継がれたこれら近代哲学(認識的転回)は一時代を築くことになり「真理は自分にある。もはや神は死んだ!」とまでニーチェに言わしめた。そんな思想の地平もヴィトゲンシュタインの言語哲学、ソシュールやレヴィ=ストロースなどの構造主義など数々の道標をへて70年代、ポストモダニズムが思想のみならず社会全般を巻きこみ跋扈(ばっこ)するに至るのだ。

ポストモダニズムはヨーロッパ近代哲学・思想に裏付けられた西洋文明がフランス市民革命の暴走、二度の世界大戦、共産主義の失敗などの反省から起こったと言われている。権威主義、教条主義、啓蒙主義などの否定だ。その代表格リオタールが放った名言「ヨーロッパの白人男性が築いた大きな物語の終焉」である。文化相対主義、多元的主義になり差異の価値化に着目。マイノリティ(女性、ゲイ、少数民族など)やアンダーグランド文化の肯定など180度転回したのだった。

「蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、大人の獣がするように性欲を発散する」とヘーゲル読解入門(1947年)を著したコジェーヴは来るべきポストモダニズム社会を予想した。また「高級文化とポピュラー・カルチャーのあり方には絶対的な差異はないという認識である。(略)われわれに代わって自動的に良いものから悪いものをあらかじめ選択してくれるような容易な参照点はもはや存在しない。」(ジョン・ストーリー「ポピュラー・カルチャーとポストモダニズム」より)のだ。

まさにウォーホールやリヒテンシュタインなどのポップ・アートからヘリング、バスキアなどのグラフィティ・アートもその証左にほかならない。彼らはアウトサイダーからの突破でありシミュレーションとシミュラークル(ボードリヤールの提示したオリジナルなきコピー社会)の申し子たちなのだ。街角にマーキングする記号化と反復。権威権力へのシニシズム(冷笑主義)。そして他のニューペインターたちのタブローのノスタルジーと荒々しいブラッシュ・ワークもクールジャパンのアニメブームや村上隆などのスーパーフラット絵画もその延長線上にあるのだ。

とにかく表面的には何でもありの混沌とした世相になっているのが現状である。作家が美を作りだし提供するという立場から、例えばハイデッカーの生徒だったガタマーは作る側から見る側に解釈の主役は移ったといい(受容美学)、高田明典はこのガダマーの解釈を「コミュニケーション的転回」でより発展させる。「美的価値とは作者の側にあるのではなく、また受容者の側にあるものではなく、その両者の価値のせめぎあいのさなかに発生するものである。これを芸術のコミュニケーション的転回である」と。

1988年、フリーズというサブカル的イベントから一気に世界のトップまで上りつめたヤング・ブリティッシュ・アーティストのダミアン・ハーストや自らの性生活を題材にするトレーシー・エミンもこのコミュニケーション的転回の作家とも受け取れないだろうか。

例えばデュシャンは見る側に価値をゆだねた(受容美術)。YBAsたちは一歩進んで作品そのものより、それによって起こる論争やリアクションを期待するようにシフトした。物議をまず起こすこと。そうすればあとは勝手に世論が仕上げてくれる。東浩紀氏がいう「動物的なポストモダニズム」な世界観だ。つまり個人の欲求と既成価値(権威・権力)の対立、その合意をさぐるパワーバランスの混乱がテーマになったのだ。

日本では具体グループに始まり70年代までのハプニング・ムーブメント、最近ではチンポムなどメッセージ性の強い作品をパブリックに投げかけるアーティストは時代ごとに登場するが、ただの事件で終わって文化に昇華されず世相の一つで消費されてしまうところはヨーロッパ的思想/哲学的文脈のない文化構造の我が国にとっては当然の帰結なのだろう。

ポストモダニズムの危ない誘惑「何でもOK」ワールド。それこそ現代美術界においても油断すると、シミュラークルとシミュレーションの迷路にまよい込み、引用の引用や私小説的サンプリングなど表面的だが斬新さをともなって現れる自家撞着的な安易な方法論に陥ってしまうのだ。

しかし、ポストモダニズムを否定する意見は数多く存在する。そこから抜きんでる思想の萌芽はひっそりと土塊を突き破ろうとしている。その最先鋒「ポストモダニズムと消費社会」の著者フレデリック・ジェイムソンは「素朴な創造性の文化であるどころか、ポストモダニズム文化は引用の文化である」と攻撃する。シェリー・レヴィーンやマイク・ビドロなどに代表されるアプロプリエーション(引用)アーティストたちが一時期、活躍したが、現在もその存在感は維持できているのだろうか?
では新たな地平のどこへ向かえばいいのだろう?

ポストモダニズムより少し前に活躍した言語哲学者ヴィトゲンシュタイン曰く、「絵画と言語は我々に無限な意味を与えることのできる二つの型式である。絵画は意味を持ち何かを語る。しかし絵画の意味を限定することも語り尽くすこともできない。それは絵画の「語り」と「意味」が言語とは別の次元に存在し、絵画の伝える「思考」が論理空間には存在しないものだからである。絵画は意味を持つが我々はそれを思考できない」

つまり、これまでいろいろ述べてきたが、思想や哲学的アプローチとは言葉の囲い込みなのだ。言葉をろうし言語世界でつきつめていきながらヴィトゲンシュタインの言う「絵画の思考できない世界」をあぶり出すという試みだ。なぜなら絵画は言葉では思考できない「意味」だからだ。だとしたら、あえて自分は絵画に意味を与えてしまおう!思考できる世界へいったん引きずりおろしてみよう!言語と絵画、その境界に感動のシルエットが隠れているのだから。

しかし、アーティストの本当の仕事とは作品をつくることではなく、感動のシルエットをなぞることでもない。その中にあるのだ。今のところ自分にとってその中は、青く無限に広がる「愛と安心」という言葉で代用するしかなす術を知らない。

<了>