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月刊誌ナイルス・ナイル
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ナイスルナイルはよりよいライフスタイルを提案するカルチャーファッション誌です。
世界的に活躍する日本人画家、彫刻家などのアーティストをピックアップ。
このコラムは2005年12月号より2007年9月号までに連載した記事と現在執筆のもの。
2006.1月号 NO.108 カバーフォト:TONY---------発行:ナイルスコミュニケーションズ
[登場アーティスト]
杉本博司(No.107 )
篠原有史男(No.108 )
黒田アキ(No.109)
荒川修作(No.110)
中島由夫(No.111)
安田侃(No.112)
小林孝宣(No.113)
外尾悦郎(No.114)
ジミー大西(No.115)
松山修平(No.116)
草間彌生(No.117)
村上隆(No.118)
森万里子(No.119)
奈良美智(No.120)
川俣正(No.121)
千住博(No.122)
新宮晋(No.123)
リー・ウー・ハン(No.124)
絹谷幸二(No.125)
横尾忠則(No.126)
大竹伸朗(No.128)
ヘルマン・ニッチェ(No.176)

「前衛」芸術家?! ー 篠原有司男(しのはらうしお)


 彼の名は知らなくても、スポーツドリンクのテレビコマーシャルで人気男性シンガーと一緒に青い絵の具を浸したボクシンググローブで白い布に殴りつけていた精悍なオヤジ、といえば合点がくる人もいるのではないだろうか。
 1932年,東京、麹町生まれ。自身いわく、豪邸が建ち並ぶなかにあった貧相な長屋育ち。東京芸術大学へ進学し日本フォービズムの巨匠、林武に師事するが、持ち前の反骨精神?で中退。69年渡米。以後ニューヨークに住み精力的に極彩色の絵画・彫刻を制作しつづけている。
 ギューちゃん。有司男からもじった彼の愛称である。芸大入学後、そのアカデミックな教育方針に真っ向から対立し、学業よりほとんどを仲間との前衛活動に費やす。本当はただの飲み会だったりケンカだったり恋愛だったらしいが。しかしその前衛ぶりが半端ではなかったのだろう、モヒカン刈りに筋肉質のボディの容姿も効果抜群で当時のマスメディアに盛んに登場している。
 実はCMで演じていたボクシングペイントは40年以上も前の62年、ヒラメキで始めたという筋金入りのパフォーマンス(当時まだパフォーマンスという言葉はなかった)であった。それも自国のメディアのみならず、著名な写真家ウィリアム・クラインが撮影しアメリカの雑誌や自分の写真集に掲載したほど有名だったのだ。
 しかしそのヒラメキも57年、今はなき日本橋白木屋デパートのショーウインドウで行ったアンフォルメル画家ジョルジュ・マチュウのアクション・ペインティングが素地になっている。マチュウの浴衣にたすき、赤いハチマキに白足袋といういで立ちでサムライよろしくバッサバッサと描いていく姿にいたく感銘を受け、後に「これこそ画家の真の姿である」と自著でも書いているぐらいなのだから相当なものだったようだ。
 さて当時の美術界は奔流がヨーロッパからアメリカに移りつつあった。
 50年代、ヨーロッパでは評論家ミシェル・タピエが提唱したアンフォルメル運動(抽象表現主義)が全盛を極めていた。マチュウのほかにはフォートリエ、アルテゥング、スーラージュ、デュビュッフェ、ヴォルスなど。アメリカからもポロック、サム・フランシス、デ・クーニングらが参加。渡仏した今井俊満(篠原とは画塾が一緒だった)や堂本尚郎もその中心作家として活躍している。
 60年代になると、アメリカでジャスパー・ジョーンズやロバート・ラウシェンバーグなどが登場しネオ・ダダイズムとしてあっという間にアートシーンを凌駕する。それもつかの間、数年後アンディ・ウォーホール、ロイ・リヒテンシュタイン、クラエス・オールデンバーグなどに代表されるポップアートの波が押し寄せる。
 その頃の日本といえば64年開催の東京オリンピックも目前に控え、テレビなどの情報網の急速な普及や高度経済成長にあわせるように世界中から文化や物がどっと押し寄せた頃だ。見るもの聞くものすべてが新鮮、かつ刺激的で誰もが夢に向かってエネルギーを発散させていた(むしろ発散できた、と言う方が適切かもしれない)。
 日本の若い前衛芸術家たちもアメリカ現代アートの強力な磁力をもろに浴びる。彼らの活動は実績も伝統もないゆえとにかく、注目されることが第一目的、との印象もなくはない。しかし当時の資料をみると、むしろより新鮮で力強さが伝わってくるから不思議だ。なによりも前衛芸術は世界を変える、という気概が感じられ、それが一番うらやましい。
 篠原以外にも当時はまだ無名で後年、世界に名を馳せた者も多数いた。耳の彫刻の三木富雄(後に自殺)。オップアートの桑山忠祐。フランスで成功した工藤哲巳。アメリカに渡り世界的な現代美術家になった荒川修作や河原温などだ。
 建築設計図風で一躍、コンセプチャルアートの旗手になった荒川修作は、神経症的な性格でコンクリートの固まりを胎児に見立てた作品を作っていたし、日付だけを描くテゥデイ・ペインティング・シリーズで有名な河原温は、展覧会会場で生卵を投げつけるパフォーマンスをやったり、工藤哲巳は前衛芸術の祭典(?)読売アンデパンダンに発表した作品で、評論家東野芳明に「反芸術」という名文句を吐かせたりした。
 60年に篠原らはその荒川修作や吉村益信、赤瀬川原平、風倉匠作、岸本清子、田中信太郎などとともに「ネオダダイズム・オルガナイザーズ」という団体を結成している(しかし9ヶ月間で解散したのだが)。ちなみに荒川修作は、勝手に個展をしたという理由で破門されている。
 日本の前衛芸術家のリーダー的存在になっていた篠原有司男は、64年にラウシェンバーグが来日し草月会館で公開制作&質問会が開催されたとき、「思考するマルセル・デュシャンの像」というハリボテ彫刻を持ち込んでラウシェンバーグに挑戦した。後に本物のマルセル・デュシャンがその写真を見て、2000ドルの奨学金を贈呈するというおまけまでついている。
 そして彼もとうとう69年、ロックフェラー三世基金からの奨学金を得てニューヨークへ旅立つことになる。
 昨今、前衛という言葉をまったく聞かなくなった。あえて使おうとすると古くさいイメージすら感じられる。もはや死語となったのだろうか。辞書では「既成の概念や形式にとらわれず、先駆的・実験的な表現を試みること」とある。
 ひも解けば、篠原が芸大をアカデミックな教育になじめずドロップアウトしたように、当時日本には既成概念(権威)や形式が溢れていて、そうじゃない! と心中帰するものがグツグツと煮えくり返っていた、というふうには考えられないか。
※参考資料/前衛の道(篠原有司男著 1968)、美術手帳 1995年10月号(ともに 美術出版社刊)
[掲載写真] 1.<女と兎を従えたストロベリーアイスクリームをなめる骸骨バイク(テロリストアタック直後のニューヨーク)2004 h207x340x139cm
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